2025年12月11日
今回は約30年にわたり銀行で審査・事業再生業務に携わり、現在は事業再生コンサルティング会社に勤務するA氏にお話を伺いました。 銀行員として数百件の再生案件に関わってきた経験からみえた、
- ・「事業再生コンサルティング会社」と「銀行における事業再生」の違い
- ・銀行員からみた事業再生のリアルとは
について語っていただきました。
プロフィール
元・大手銀行審査部門責任者
現・事業再生コンサルタント
元・大手銀行の審査部門責任者。約30年の銀行員キャリアのうち約10年を事業再生・審査業務に従事し、数百件の企業再生案件を担当。審査部門では西日本の企業再生部署の統括責任者を務め、中小企業から上場企業まで幅広い規模の再生実務を経験。
2023年12月より事業再生コンサルタントとして活動。銀行員として培った審査の視点と、経営者に寄り添う姿勢の両面から、クライアント企業の再生のために伴走している。
【元銀行員が語る事業再生のリアル】経営者が知りたい事業再生の本質とは
目次 [非表示]
銀行員として歩んだ30年と事業再生の原体験
まずは、Aさんの銀行員としてのご経歴についてお聞かせください。
大手銀行で約30年勤務したのち、事業再生コンサルタントに転職して2年目になります。 8つの支店勤務、2度の本部審査部門勤務と幅広く従事し、バブル崩壊から金融再編、金融自由化、会計ビッグバン、金融円滑化など時代の変遷を経験しました。
銀行員としての30年のうち、1/3ぐらいは事業再生関係の業務を担当し、家族経営の中小企業から上場企業まで幅広くお手伝いしてきました。
入行5年目あたりから破綻リスクが高いと判断された「低格付企業」を多く担当するようになりました。支店では個人事業主から中小中堅企業を中心に、審査部では中堅から大企業の大口与信先を担当しました。30代前半に一度目の審査部勤務を経験しましたが、小泉政権の金融再生プログラムの時期と重なり、金融庁検査で取引先の信用格付がランクダウンしないよう、理論武装や再建案の策定等で随分なハードワークの日々だったと思います。金融庁検査の結果、信用格付が「要注意先」から「破綻懸念先」へランクダウンした場合、たちまち融資取引の継続すら難しくなってしまう。つまり信用格付を守らなければ取引先の死活問題に直結する可能性があったからです。
負債の整理と、企業再生は表裏一体でした。
再生のお手伝いとは言うものの、徳俵に足をかけた状態の取引先については「事業再生と不良債権処理」は表裏一体。中には、融資の謝絶、法的手段を使った強制回収といった、結果的に債務者を法的整理に向かわせる「不良債権処理」という方針を出さざるを得ない取引先もありました。
事業再生についての話題の前に、Aさんが銀行時代に担当されたお仕事などについて教えてください。
入行して1-2年目の頃は、1日に大きな金額が動いていた時代でした。
最初は支店の融資窓口業務からスタートし、ジョブローテーションで一通りの支店業務を経験しました。資金係だった時期は、朝にその日支店で取り扱う数億円の現金を日本銀行へ受け取りに行き、夕方になれば余った金額を戻しに行く。その頃はバブル終焉直前で不動産・ノンバンクが隆盛を極め、数十億円単位の新規貸出の稟議を、入行間もない新人が訳も分からず書いているという図式も日常茶飯事でした。
私も入社1年目に、上司に言われるがまま100億円の貸出稟議を書いた記憶があります。いまでは想像できないでしょうが、この頃の短期プライムレートは8.25%。不動産が異常に高騰し、当時の大蔵省から総量規制と呼ばれる土地関連融資を抑制する行政指導が行われたような時代です。
「不動産の取引があるから現金を運ぶのを手伝え」と言われ、ジェラルミンケース2個ずつ、3人の新人で運んだことまであります。1個に1億5千万円まで入りましたから3億円×3人…9億円ぐらい運んだんでしょうね。
外回り時代は上司に「毎日普通預金100件獲るまでまで帰ってくな!」と指示され、雨の日も風の日もバイクで走り回ったり、大口の定期預金が解約されれば「もう一度預けてください」と頭を下げに行ったり。ノルマもありましたし、いまの若い人達からみるとずいぶんブラックな時代の銀行業務を経験したと思います。正に昭和の社員教育だったのでしょうが、お陰で根性だけは身に付きました。
打って変わって、4-5年目の頃は金融不況の入り口の時期にさしかかり、平たく言うと「銀行が貸出できない」という状況に陥りました。
銀行が新規融資に消極的になる「貸し渋り」、返済期限到来後に継続書き換えを渋るいわゆる「貸しはがし」が社会問題になりました。
バブル経済が崩壊し、株式や不動産価値が下落。金融機関は、特に不動産関連融資での不良債権を多額に抱えるようになりました。ちょうど、北海道の大手銀行、政府系大手金融機関、関西の信用金庫など金融機関の倒産が発生した時期で金融システムが不安定になり、これ以降、金融再編が本格的に加速して行きました。銀行が倒産するという現実を目の当たりにした人々は銀行預金をタンス預金にしたりと銀行の預金量にも影響が出る始末。預金の払出ができないとなると「あの銀行は倒産するぞ」という風評が一気に広まりかねないので、各支店は常に必要以上に潤沢に現金を準備しなければならないなど、いま思えばゾッとする時代でした。
銀行はお金を集めて貸すのが仕事ですが、不良債権が増加し貸倒引当金の計上や損失発生により自己資本が痛むなか、一定の自己資本比率を維持しなければならないという自己資本規制の強化など、金融機関に対する健全性を求める行政指導も強まった結果、融資を圧縮する動きはどうしようもない状況でした。そのため、「貸し渋り」や「貸し剥がし」をせざるを得ない状況になっていったんです。
とは言うものの、無理矢理抑制しては取引先が資金不足に陥ります。
どこにどれだけ貸して、どこでどれだけ回収するか、継続書き換えを断るかやるべきか、やるべき先とやらなくていい先、それを見極めるのも心が痛む仕事でした。
その後も、支店をいくつか渡り歩いた後に、30代前半に審査部門に配属となりました。審査部門では、「要注意先以下の大口融資先」を担当しました。 折しも金融庁検査が厳格な時代で、先にお話しましたとおり、取引先の信用格付を死守することが使命になりました。取引先の信用格付がランクダウンすると、「取引先への融資が難しくなる」という理由のひとつに、銀行は信用格付に応じた貸倒引当金を積まなければならないという点があります。例えば「破綻懸念先」に新規融資をした場合、当時は破綻懸念先の引当率は70%程度だったと記憶していますので、融資額の無担保部分の約70%、つまり1億円無担保融資すると同時に7千万円費用計上しなければならない、いきなり7千万円赤字の貸出になる訳ですから、経済合理性がありません。
さらに「破綻する懸念がある先」と認識されている取引先に融資する訳ですから、「破綻する懸念があると認識している先になぜ貸出するのか、融資取引を継続するのか」という命題にも答える必要があります。そのため、「取引先にとって信用格付のランクダウンは死活問題」だったのです。
また、当時の銀行は、不良債権を多大に抱えて多額の貸倒引当金を計上したり、倒産多発で損失が発生したりと、自己資本が薄く、新たにランクダウンが発生して貸倒引当金を追加計上させられる事態に陥ると、銀行自体が債務超過に陥る可能性もありました。その意味では「取引先を守ると同時に銀行自身も守る」という非常に痺れる状況にありました。
結果的には私の勤務していた銀行に限らず、多くの銀行が「公的資金の注入」を受けて自己資本を維持し、行政が意図した金融システムの安定が図られたのですが。 この頃の金融庁検査の資産査定は、年1回の一般検査と、大口のメイン先を対象にした年2回の特別検査がありましたので、ほぼ通年、検査対応をしながら、通常の審査や取引方針、信用格付のランクアップ策立案などに携わっていました。一般検査は検査官一人に対して説明を行うのですが、特別検査は、検査官5~6人、それも臨時採用の不動産鑑定士、公認会計士、税理士といった専門家が加わっており、我も我もとご自身の専門分野の専門的な質問…というか、突っ込みをしてくることも度々あり、これには苦労しましたが、この頃受けた「千本ノック」のお陰で、メンタルと知識・ノウハウは随分鍛えられました。 結果、銀行内で「この分野の専門家」という「レッテル」を貼られてしまい、私の思い描いていたキャリアから外れ、「事業再生畑の人」にさせられてしまいましたが…。
その後は本店で低格付先の集約新規部署の立上げ、一般の支店勤務を経て二度目の審査部門で再生専門部隊の地区統括、某事業会社の再建支援出向を経て、現在のコンサルティング会社へ転職しました。
「事業再生なんてよく分かりません」という読者が、事業再生を進める上で理解する上で知っておくべき業界の変遷があればお聞かせください。
1995年から2005年くらいまでは、「金融再生」「不良債権処理」が中心でした。特に小泉内閣での竹中プランの下で、不良債権を処理し、銀行の再編と公的資金の注入で金融システムの安定を図るという動きのなか、大企業中心に債権放棄や事業の切り売りといった大鉈が振るわれましたが、中小零細企業にはあまり目が届いていなかったように思います。
潮目が大きく変わったのは2009年12月に施行された「中小企業金融円滑化法」でしょうね。これは最も大きな転換点であり、この法律によって企業にとってはリスケ(返済猶予)のハードルがググッと下がり、銀行にとっては企業からのリスケ要請を断る選択肢が事実上絶たれました。
背景にあるのは前年の2008年に起こったリーマンショックです。これをきっかけに世界的な金融危機が発生、日本でも外資の撤退が相次ぎ、このままでは多くの企業が連鎖的に倒産し、失業者が増加するなど、日本経済全体に大きなダメージが及ぶ恐れがあったのです。
この危機を乗り切るため、金融機関に対し「借り手への緊急的な資金繰り支援措置を講じよ」と政府が打ち出した政策がこの「中小企業金融円滑化法」です。条文としては、リスケ(リスケジュール=返済猶予、返済低減による資金り支援)に応じることを義務付けたものではなく、「中小企業等からの借入条件変更の相談に親身に対応する義務」が銀行に課されただけですが、同時に「実施状況を当局に報告する義務」も課せられていたので、事実上、銀行は余程のことがない限りリスケ要請に応諾せざるを得ないようになりました。
これにより、リスケなど金融支援を取り巻く環境が180度様変わりしました。
この法が施行される前は、企業が銀行にリスケを申し入れるといわば犯罪者扱い。今で言うバンクミーティングでは怒号が飛び交うのも日常茶飯事でしたが、様相は一変しました。
施行後、極端に言ってしまえばファックス1枚「リスケを申し込みます」と送られてきて、銀行側も「わかりました」「じゃあちょっと期限延ばしましょうか」「いつまでご猶予しますね」というやり取りに様変わりしてしまったんです。
ちなみに当初は期間限定(時限立法)だったのですが、東日本大震災の発生などにより延長され、期限を迎えた後も「円滑化法の精神を踏襲します」と銀行業界団体が宣言しており、そのスタンスは今も続いています。
企業サイドにとっては「ラッキー」と言う解釈で良いのでしょうか?
いいえ、リスケが容易になったことは企業にとって良いことばかりではありません。本来淘汰されるべき企業までが、ズルズルと延命を続ける「ゾンビ企業」が明らかに増加しましたから。本格的な再建を図るまでの時間的猶予が得られ易くなったと認識するほうが正しいです。
本格的な再建が頓挫すれば、次は誰も救ってくれないと考えるほうがよいでしょう。
企業とは本来、社会と経営者を含め働く人を幸せにするというミッションがあります。融資されたお金や補助金で息をつなぐのではなく、世の中の役に立つことで息を吹き返すべきなのに、ゾンビ企業になるとそういった意識が低下し、自力で立ち上げるエネルギーがなくなりがちです。
「茹で蛙」にならないためにも「ラッキー」と思うのではなく、緊張感は持つべきだと思います。
とはいえ、企業の経営者の皆さんの立場からすれば、銀行への返済をリスケすることで資金繰りの維持が見込まれるのであれば、少なくとも入口の時点で「リスケに応じてもらえるかどうかわからない…」と身構える必要はなくなったのは間違いありません。
銀行にとって事業再生支援への取組は、地域経済や自行の取引基盤を守る意味でも使命と心得て対応していますので。
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